心理カウンセラー愛夫家りお

 パートナーシップと家族とわたし

比較・競争は、しちゃうもんだしなくならないもんだし。と、遥か昔の世界にゆるく思いを馳せながら、まぁわたしはわたしだし「今」を生きるよ、お弟子はつらいよ、感謝だよ。

比較と競争のない心の世界って、きっと平和ですよねー。憧れます。そこはもう、鏡のような湖面のごとく、風も凪いで穏やかな世界ですよ。蓮の花もうつくしいですね。

そうはいっても、完璧を求めると何事もつらくなるものです。なので、わたしは比較・競争を手放します!全部追い払ってやる!と鼻息荒くなってしまったら、「あら、わたしとしたことが。おほほほほ」と言って、ティータイムにした方がいいかもですねぇ。

で、紅茶をすすりながら、わたし、思うんです。比較と競争って絶対なくならないよなぁと。遥か遠い、遠い昔。まだ、わたしたちが今ほど言葉をもたないサルだった頃。あるいは、もっと遠い昔の、単細胞生物でもいいですよ。ミドリムシみたいな。その頃でも、やっぱり競ってたと思うんですよね。知らんけど。

だってホラ。受精卵って、何億匹もの精子が競って、1位だけが卵子の中に入って行けるらしいじゃないですか。つまり、わたしたちは、競争の果てに生まれて来たってわけです。初めに競争があった。そんな世界です。しかも、卵子もまた、選別してるんですよね(卵管までたどりつけるのは、選抜された100匹くらいですって)。精子を比較してるわけです。もちろん、受け身かつ無意識にですけど。当然か。

わたしたちは、比較と競争の果てに生まれて来た。というか、生物はみんな、比較と競争の中で、種を維持してきた(のかもね)。だとすると、比較と競争って、そもそもDNAにふか~く刻み込まれたものだから、なくならないよなぁと思えるんです。

えー、そうなんだー。絶望ー。

あ、ごめんなさい、絶望しないで。確かに、比較・競争の心理が、日常生活に支障をきたすレベルになると、本当に苦しくてつらいですよね。だから、それは手放した方がいいですよね。

では、どうやって手放すか?です。

ちょうどいい例がありましてね。最近、カウンセラーの根本さんのお弟子6期がスタートしたんです。わたしもお弟子です。

というわけで、わたしを例に、見て参りましょう。

さて。自己紹介せねば。早速、お弟子サイトへ出かけてみました。すると、まー、みんな沢山書いてる。しかも長文。すごい!すごいけど………確かに、こんなに長くて、しかもみんながみんなそうだと、読めんわ。読む気も失せるわ。わはは!わたし、いつも「長文すぎて読めない」「しんどい」「返事できなくて申し訳ない」とか言われて来たんだけど、その気持ち分かるわー。

そしたらね、気づけばこんな風につぶやいてたんです。笑いながら。

なんだー、みんな一緒か。

どうもわたしは、「長文の島」へたどり着いたみたいです。これまでは、わたし、「短文の島」「長文はつらい島」に住んでいたようなんです。もしそうなら、そりゃぁ迫害もされるし、批判もされるし、非難もされますよね。いや、実際のところは、心優しい島人ばかりだったので、わたしは、相手に「ごめんね、読めない」と言わせて、彼らの罪悪感を積み増してたのかもなんです。だとしたら、わたしが、迫害して、批判して、非難してたのかもですよね。いずれにせよ、お互いに傷ついて疲れていたわけです。

ところが、「長文の島」に辿り着いたら、すごい人がたくさんいて、自分がとっても普通に感じられたんですね。なんだ。わたしふつーじゃん。なんだー。「じゃぁ、わたしはわたしでいいね。」そう。自分軸です。するとあら不思議。比較も競争もどこかへ行ってしまいました。

ほかには?

同期のみんなに貢献できるものは何ですか?と問われて、さぁ答えようと出かけたわけです。そしたらビックリ。「うあー。みんな経験豊富だなぁ。スキルも色々!知識も豊富!わー。わたしなんて、昔は出来たかもだけど、もうほぼ全部忘れてるし、資格なんて有名無実だし。いたずらに年とっただけで、なんもないわー。うわー。」

焦りましたよ。

そんな時に、そういえばわたしは「時間持ち」だわ、と思い出したんです。これって、自己肯定感を上げていく過程で認めた、わたしの価値の一つなんです。「ない」ものじゃなくて、「ある」ものを見たんですね。「ない」ものを見てるときは、「どうせわたしは、専業主婦で仕事してないし、子どももいないし、だからヒマだし。」としか思えなくて。だから、自分にダメ出ししてふてくされてたんです。だけど、「ある」ものを見たら、「ヒマな時間。これがお金だったら、わたし、億万長者よね。そうか!わたしは億万長者だったのか!」と思えまして、はい。以来、わたしは時間持ちの億万長者で裕福だと思っています。

やったー!ラッキー!時間があったー!

ところが。みんなに向かっていざアピールという段になって、時間あります!ひどい体験してるんでどんな話でも聴けます!って言っちゃったんです。ひどい体験だなんて、なんだか怖いですよねぇ。後ろ向きな感じしますよね。ふわっと優しく明るい感じがよかったなぁ。そんな風に人目を気にしたところで、誰も気にしやしないって!と頭ではわかってるんだけど、でも。きっと「イヤな感じ」って思われてるに違いない。

え?なにその断定。わたし、そんな悪人じゃないんだけど!

あ、ああ…そうよね。ごめんなさい!

もうね、自分がメンドクサイです。あちらを解決したと思ったら、こちらでダメだなと感じるだなんて。メンドクサくてイヤになって、シャッター降ろしたろか?全部なかったことにしたろか?消えたろか?消えるぞ?!なんてやけっぱちのやけくそにもなってきます。

けれど、ここ最近は復活が早くなっていましてね。振り子のように、「まぁ、わたしはわたしだ」というところに戻っていけるんです。そうしたら、「みんなすごいなぁ」「なんかあったらお願いしよう」と、ただただ、みんなを頼もしく思えるんですね。

どうしたら、振り子のように戻れるの?

まずは、「あー、イヤだと思ってるなー、被害妄想はげしくなってるなー、やけくそになってきたなー、そかそかー」と自分の感情を認めてあげるんですねぇ。まぁ仕方ないよねーって。それと同時に、ひたすら「わたしはわたし、人は人」と、自分軸のアファメーション(肯定的な自己暗示)。気になって仕方のない人が出現した場合は、「人」の部分に名前を入れたり。

「わたしはわたし、人は人」って、一見、他人を突き放してるような感じもして、わたしは自己中の冷たい人になっていくんじゃない?孤独になるんじゃない?って不安になったりもしますよね。

大丈夫。人の目が刺さり過ぎてじっとしててもつらいほどだ!とか、考えないようにしてても考えちゃってつらいわ!という時ほど、このアファメーションは心を守ってくれる壁建設に貢献してくれるんです。そして、自分と人との間に壁ができると、ホっと一息つけるんですね。自分の心に余裕ができるんです。すると、ちゃんと他人に優しくもなれるんです。面白いですね。

え?名前って、誰の名前入れたん?ワクワク!誰?

まぁ、その話はオフレコでまたの機会に。

子育てしてる人たちには、リスペクトしかないです。わたしは、既婚者だけど、子どもがいなくて、妊娠も出産も子育てもわかりません。さらに、子どもが欲しくて本当に苦労した、という経験もありません。とてもあっさりドライに、子どものいない人生を選択したわたし(ではないんだけど、そんな気がして、罪悪感を抱えてるかも)です。だから、それらの経験をしてる、その現実に生きてる人たちには、もうホントにリスペクトしかありません。

介護をしている人たちに対しても。家のことをしている人たちも、家のことをしながらお仕事をしている人たちに対しても。社会的・経済的に自立している人たちに対しても。ホントにリスペクトしかないです。

海外に住んでる人たちにも。わたし、自分は見知らぬ場所へ行っても、物怖じせず話せるタイプだと思ってたんです。ところが初めての海外旅行の時、搭乗手続きカウンターで気後れしてしまって、受け答えに口ごもってしまいました。自分の無力無能さがバレる!イヤだ!恥ずかしい!怖い!だから、若干ヒステリー気味な命令口調で、夫に「話して!」なんてお願いしていました。

出来ないのがバレちゃうことは、恥ずかしい。かといって、黙っているのも心苦しい。なら、素直にぶっちゃけようぜ!それがわたしだから仕方ない!出来る人に頼ってしまおうぜ!

わたしに「ない」ものは、誰かが持ってる。みんなが持ってる。だから、大丈夫。そして、わたしもまた何かが「ある」。それをもっとしっかりはっきり見るために、お弟子世界に来たんじゃない!

そうなんですよね。そう思うと、ただただホントに、みんなすごいなぁって感動するばかりで。居てくれてありがとう、大変な中、生き延びてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうって感謝するばかりなんです。

ああ、なんだか胸がいっぱいになってきちゃったよ。お弟子のみんな、先輩、師匠、そして、ここに書ききれなかったすべてのこと、これまで出会ったすべての人、これから出会うすべての人、世界中の人みんな!居てくれてありがとう!生きててくれてありがとう!

大きな愛。純粋無私の愛。ですね…。感動しました…涙。いい話をありがとうございました!

終わってないです。まだあります。

えー、興ざめー。

ブログを開設してみましょう、ということで、ワードプレスの設定を、みんな、頑張ってる様子も目の当たりにしました。

なんか、感動的な話の後に、いきなりまた具体例に戻るのって、確かに興ざめですね。まぁでも構わず続けます。

ワードプレス。ひえー、すごいなー!わたしもやってみたいなぁと興味津々。でもね、わたしは、かつてやろうとしたことあったけど、中身がないから外が全く決まらないなぁ、イメージが全く浮かばないなぁ、なんて途方に暮れて、結局うやむやにしてしまったことがあるんです。その癖、クールでスタイリッシュなサイトを作ってる人を見ては、凹む。「わたしだって出来るはずなのに。ヴィジョンがないばかりか、やる気すらでないなんて。わたしってダメだわ。」と。

わたしの、わたしに対する「期待」の高さったら。すごいですね!

それで、この度は早々に「今のわたしにはムリだなぁ」と自分への期待を手放し、「面白そうだけどそこまで気が乗らないなぁ」と感じてることを認めてあげて、「まぁわたしはわたしだ」と自分軸、「わたしの好きなことからやろう」というわけで、ブログをガシガシ書くぞーという道に舵を切ったわけです。それで、そんな「今」を生きています。

なんだー。ダサー。

でしょー。まぁいいのよっ。これがあたし。

というわけで、わたしは、比較しちゃぁ競争の波にさらわれて、ここまで来てるんですねぇ。そんな中にあって早々に復活するコツが、「わたしはわたし、人は人」の自分軸になること、自分の感情を認めてあげること、自分の価値を認めてあげること、そして、わたしの好きなことをやって「今」を生きることでした、というお話です。相手の価値を認めること、感謝すること、相手を信頼すること(頼ること)は、嫉妬を手放すことにも通じますね。(そして、その「嫉妬」は、自分自身の眠れる才能、価値、魅力であったりもします。すてきね、わたし!)

こうして、わたしたちは、互いに理解し合い、すなわち、対等性を獲得し、相互依存の道を進んで行くのです。明るい未来にワクワクしますね!

さて。

お茶の時間もそろそろ終わり、お開きです。

なのですが、実は一つ、わたしには、とても気になっていることがあるんです。

「競争心」がある人ってあまりその自覚がないことが多いんですね。
それで、自分にとっては「ふつう」だと思っているんだけど、いきなり誰かからケンカ売られたりするわけです。で、ふと手元を見たら「あら。日本刀持ってましたね(はあと)」って気付くんです。
つまり、周りの人から競争を仕掛けられる=私の中に競争心がある、ということを表していると思ったら良いと思います。

出典はこちら。

nemotohiroyuki.jp

今のところ、体育館の裏に呼び出されて、焼き入れて蹴り入れて剃り入れられることは無くて済んでいます。たぶん、この先も大丈夫だと思っています(震え声)。

でもね、過去の体験の中に、思い当たることがポツリポツリとあるんです。なので、「わたしが競争をしかけてるとしたら、なんで?どうやって?」「どうしたら、それやめられる?」というのは本当に深い謎、大きな課題でして。

これについては、また後日、お話してみようと思います。乞うご期待!