愛夫家りお

心の深みに潜む感情に気づき、生きやすさを手に入れるサポートをいたします

束ねようとする自分に気づくとき ~新川和江さんの詩「わたしを束ねないで」に学ぶ、愛と自由~

素顔のわたしでラク~に生きる!クリスチャン心理カウンセラーの愛夫家りおです。

 

 

この自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。新約聖書「ガラテヤの信徒への手紙」5-1)

 

 

ネットサーフしていて、新川和江さんの詩がふと目に留まった。

 

 

そういえば、昨年の8月に亡くなられたのだった。

 

 

もうすぐ1年になる。

 

 

詩は中学の国語の授業で習っただろうか。

 

 

あれからもう40年近く経つ。

 

 

それでも、今も読むたび、鮮やかにわたしの心を打つ。

 

 

いや、中学生の2倍も3倍も生きてきた今は、尚一層の深みをもって、わたしの心を打つ。

 

 

わたしを束ねないで

新川和江

わたしをたばねないで
あらせいとうの花のように
白いねぎのように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色こんじきの稲穂

わたしをめないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃はばた
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしをがないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦いうしお ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
すわりきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
コンマピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく ひろがっていく 一行の詩

 

 

この詩を初めて知ったとき、「本当にそうだ。そしてわたしも、こうして束ねられることにあらがっていく人生を送るのだな」と思ったのを覚えている。

 

 

わたしも、妻となり、母となるだろうと思っていたからだ。

 

 

そうして、親に、親族に、社会に、束ねられていくのだろうなと思っていた。

 

 

そんな風に、わたしはずっと、束ねられる側の人間としてこの詩を読んでいた。

 

 

ずっと、束ねようとする人たちに向かって「なんで分かってくれないの!?」と叫ぶ側に立っていた。

 

 

そしていつしか、わたしは、こんな風につぶやくようになった。

 

 

「あなたたちの、そういうところがダメよね」

 

 

反撃開始だ。

 

 

あなたたちは間違ってる、わたしが正しい。わたしを束ねないで。

 

 

全然分かってないな、あなたたち。束ねるな。

 

 

なにすんだ。束ねるなっていってるだろ!

 

 

けれども、ある日ふと気づく。

 

 

怒りに満ちたわたしこそ、目に映るあらゆる人たちを、束ねようとしているのではないかと。

 

 

自分が束ねられないように、傷つかないように、一生懸命頑張ってきた。

 

 

ときには、束ねられても歯を食いしばって耐えてきた。

 

 

そんなわたしには、反論する資格があって、反撃する権利があると思っていた。

 

 

でも、「あなたたちのせいで、束ねられたわたしは、不幸だ!」というのは本当なのだろうか。

 

 

そんなわたしこそ、自分の基準で人を束ねて、窮屈な思いをさせてはいまいか。

 

 

これじゃぁあべこべだ。

 

 

わたしは、わたしだけでなく、誰もが束ねられない世界を願っていたはずだ。

 

 

なのに。

 

 

こんなはずじゃなかった、と涙がこぼれる。

 

 

わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことはせず、かえって憎んでいることをするからです。

 


わたしは何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。新約聖書「ローマの信徒への手紙」7-15、24)

 

 

使徒パウロの悲痛な叫びが自分に重なる。

 

 

あぁ、わたしは、「わたしを束ねないで」と言われたときに、「はい!」と答える人でありたい。

 

 

もし、束ねてしまうようなことをしていたら、「ごめんね!」とすぐに謝れる人でもありたい。

 

 

そうなるにはどうすればいいのか……。

 

 

今の自分ではなれそうになくて、意気消沈しそうにもなる。

 

 

強気な自分を手放したら、弱い自分はあっという間に崩れ落ちそうで怖くもある。

 

 

それでも、わたしは光に向かおう。

 

 

弱い自分のまま、愛に手を伸ばそう。

 

 

そして、喜び感謝し、祈りつつ生きていこう。

 

 

パウロは、救いの秘訣を次のように証している。

 

 

口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。

 


実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。

 

 

ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。

 

 

「主の名を呼び求める者は皆、救われる」のです。新約聖書「ローマの信徒への手紙」10-9~10、12~13)

 

 

「イエスよ、あなたは神です。」

 

 

「あなたは救い主です。」

 

 

「神は愛なり」

 

 

わたしは信じ、祈ります。

 

 

そして、「はてしなく流れていく 拡ひろがっていく 一行の詩」である、わたしたち一人一人を、互いに喜びあう人になります。

 

 

人が主に向くならば、覆いは取り去られます。

 

 

主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。

 


私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。

 

 

これは主の霊の働きによるのです。新約聖書「コリントの信徒への手紙二」3-16~18)

 

 

 

わたしは気づきました。

 

 

だから、わたしは変わっていけます。

 

 

わたしは光を仰ぎました。

 

 

だから、わたしは「主と同じかたち」、愛へと変えられていきます。

 

 

「終わりのない文章」であるわたしたちに、これからも、たくさんの喜びがありますように。

 

 

共に、幸せになって行きましょうね。

 

 

愛夫家りお

 

 

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