素顔のわたしでラク~に生きる!クリスチャン心理カウンセラーの愛夫家りおです。
大学院卒元国語教師のわたしが、あなたの物語を共にたどり、愛と命と光につながるお手伝いをします。

毎日、暑いですね。
聖書には、こんな暑さにブチ切れた預言者がいます。
わたしの大好きな、預言者ヨナさんです。
ヨナさんはね、とっても怒りっぽいんです。
すぐに「死んだほうがまし」って言って怒ります。
(『鬼滅の刃』の善逸くんみたいな怒り方ね。アニメを観ている方には伝わるかな)
今日は、そんな彼の物語をたどりながら、
”わたしたちは、愛されるに相応しいから愛されるのではなく、ありのままで愛されている”
というお話をお届けします。
怒りに燃える預言者:ニネベの悔い改めに不満を抱くヨナ
このままは滅びてしまう―
そんなニネベの都に、神は、預言者ヨナを派遣しました。
ヨナは、都の人々に悔い改めを呼びかけました。
すると、王様から庶民まで、皆、悪の道を離れ、神に赦しを祈りました。
その結果、都は滅びを免れることが出来ました。
旧約聖書のヨナ書には、そのような救いの物語が描かれています。
王から庶民まで全ての人が耳を傾ける預言者だなんて!
ヨナさんはすごい人なんですね。
神の代弁者らしく、神々しい雰囲気もあったかもしれません。
ところが、当の本人は、都が滅びないことが気に入りません。
え?と、ビックリしてしまいますよね。
もしかしたら、ヨナさんは、
『「あと四十日で、ニネベは滅びる」と告げてまわったのに。
そうならないだなんて!
自分、嘘つきみたいじゃん!』
そんな風に感じたのかもしれません。
だから、不愉快だったのかもしれません。
(実際には、本人に聞いてみないと分からないけれども)
ヨナは言いました。
「神は、恵み深い方なので、絶対、災いを下すなんてことしないと思ってたんだよねー!
あぁ俺、もう死んだほうがマシ!」
と。
一応、神アゲしてるんです。
さすが信仰者です。
でも、ひどく怒っています。
それくらい、頑張って人々に告げてまわった、ということの裏返しかもしれません。
というのも、ユダヤ人のヨナにとって、ニネベは敵国の大都市。
そんなところに行って不吉な預言をするなんて、自ら死にに行くようなものだったかもしれません。
ユダヤ人以外の外国人の救いのために働くだなんて、納得できない!という正義感もあったかもしれません。
敵国を救っただなんて分かったら、イスラエルに帰ることもまた怖かったかもしれません。
あるいは、自分の言った通り大都市が滅びることを、知らず知らず期待していたのかもしれません。
そんなこんな、いろんなことが頭をよぎっていたでしょうね。
弱気になったり、傲慢になったり。
アップダウンする自分の気持ちを必死に制御していたかもしれません。
自分のような人間が神の使いだなんて…という怖れもあったかもしれません。
なので、必死に勇気を奮い起こしたりということもあったかもしれません。
そんな自分の一つ一つを、全部、神の前に注ぎだして祈り、命がけで頑張ったのかもしれません。
(いや、きっと、わたしたちが想像する以上に命がけであったのだろうと思います)
ヨナさんはとても頑張りました。
でも、ニネベの都はあっけなく救われてしまいました。
彼が怒ってしまうのも、なんだか無理ないことのようにも思えてきます。
聖書にはこう書いてあります。
「神は、人々が悪の道を離れたことを御覧になり、彼らに下すと告げていた災いを思い直され、そうされなかった。
このためヨナは非常に不愉快になり、怒って、主に訴えた。
「ああ、主よ、これは私がまだ国にいたときに言っていたことではありませんか。
ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。
あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。
主よ、どうか今、私の命を取り去ってください。生きているより死んだほうがましです。」(ヨナ書3:10、4:1~3)
なぜ彼は逃げたのか?神の召命に背を向けたヨナ
「タルシシュに向けて逃亡した」って話なんだけども。
神から声がかかって、預言者としてニネベの都に行くことになった時のことよ。
もうね、ヨナさんは、嫌で嫌でね。
それで、真逆のタルシシュ行きの船に乗って逃亡したの。
凄まじい抵抗よね。
すると、まぁ海が荒れに荒れて。
それでヨナさんは、この嵐は「私のせい」って告白して、海に放り込んでもらったのね。
ヨナさんのこういうところ、すごいとわたしは思います。
船に乗ってる人たちは、最初、なんとか全員で助かろうと努力しました。
けれども全然ダメでした。
それで、ヨナさんの言う通り、彼を嵐の海に放り込むことにしました。
船に乗っているすべての人の命を救うために、ヨナさんは、自分の命を差し出した。
神の言葉に逆らったのだから、非業の死を遂げることになっても自業自得、でしょうか。
確かに、そうとも言えるかもしれません。
しかし…。
たとえ、深い悔悟の念があったからだとしても。
人々の前に進み出て、自分の罪を告白し、人々のために命を捨てる決断をするということ。
それは、大きな愛の実践のように、わたしには思えて仕方ないのでした。
使命に生きることの現実
神の声が聞こえるとか、神から使命が与えられるとか、本当にカッコイイですよね。
でも、もし実際の神の声がかかって、遠くの国に預言しに行きなさい、悔い改めを呼びかけに行きなさいって言われたら。
皆さん、どうでしょうか?
天の神に届くほどの悪が満ちた都。
そんなところで滅びの預言をし、悔い改めを叫ぶのって、とんでもない勇気が必要かもしれません。
大変、孤独かもしれません。
それでいて、揺るぎない信仰に立ち続けなくてもならないのでしょうね。
わたしは、そんなに強くなれるだろうか。
なんだか気が遠くなります。
そもそも、神の声が分かるかどうかも怪しいものです。
「幻聴?暑さで頭おかしくなったかな?」と、まずは自分を疑うかもしれません。
あるいは、行きたくなくて、聞こえないふりをしたり、気のせいにしてしまうかもしれません。
そんな風に思うと、真逆に向かう船に乗って、地の果てまで逃げようとしたヨナさんの気持ちも、少し分かるような気がしてきます。
そして、「神の命令に背いたのだから、嵐の海に放り込まれても自業自得」とは、なかなか言い切れない感じもしてきます。
絶体絶命のどん底で…それでも祈り、そして再び怒るヨナの人間性
嵐の海に放り出されたヨナさんは、巨大な魚に呑み込まれました。
彼は、腹の中で、三日三晩祈りました。
ヨナの祈り(抜粋)
苦難の中から私が主に呼びかけると
主は答えてくださった。
陰府の底から主に叫ぶと
私の声を聞いてくださった。
私は感謝の声を上げ
あなたにいけにえを献げ、誓いを果たそう。
救いは主にこそある。(ヨナ書 2-3,2-10)
すごいですよね。
ヨナさん、まだ大魚の腹の中です。
今、絶賛、絶体絶命のどん底中。
でも、ヨナさんは、救われました!感謝します!と祈りを捧げています。
(このような祈りは、心の世界などでは「予祝」と言われたりもするね)
そんな、確固とした信仰に立ち戻ったヨナさんが、よ!
己の小ささを知り、神の偉大さと慈悲深さを身をもって知ったヨナさんが、よ!
やっとニネベに行って預言者らしく働いたかと思ったら、
「都が滅びんって、どういうこと!?」
って怒るのよっ!
些細なことで激怒!ヨナの「怒り」が示すもの
それで、怒ったヨナさんはどうしたかというと。
この先、都がどうなるか見てやろうと思って、都を出て東の方に小屋を作ったのね。
(自分は安全なところで、って感じかね?)
すると、「トウゴマ」という木がぐいぐい育って、小屋には涼しい日陰が出来た。
トウゴマってこんな感じだそうよ。

引用先:青空と唐胡麻 とうごま ひま - No: 22772162|写真素材なら「写真AC」無料(フリー)ダウンロードOK
ところが、翌日の明け方、そのトウゴマがすっかり虫にやられてしまってねぇ。
さらには熱風まで吹いてきた。
ニネベは、現在のイラク北部にあった古代都市と言われています。
中東の照りつける強い日射しは、当時も灼熱だったでしょうね。
ヨナさんは、暑さに参ってこう言いました。
「死んだほうがまし!」
ホントに言ったのよ!
聖書にはこうあります。
神である主がとうごまを備えた。
それはヨナを覆うまでに伸び、頭の上に陰を作ったので、ヨナの不満は消えた。
ヨナは喜び、とうごまがすっかり気に入った。
ところが翌日の明け方、神は一匹の虫に命じてとうごまをかませたので、とうごまは枯れてしまった。
日が昇ると、神は東風に命じて熱風を吹きつけさせた。
また、太陽がヨナの頭上に照りつけたので、彼はすっかり弱ってしまい、死を願って言った。
「生きているより死んだほうがましです。」(ヨナ書4:7~9)
すると神は言われたの。
「あなたはとうごまのことで怒るが、それは正しいことか。」
するとヨナは、
「もちろんです。怒りのあまり死にそうです。」
と答える。
ヨナさんってすごいよね。
神から声がかかると、嫌がって真逆の方へ逃げちゃう。
人々が悔い改めたら、滅びの預言は嘘じゃん!自分ハズい!って怒る*1。
しかも、本当に滅びないのか見届けてやろうって都の外から見張っちゃう。
自分で勝手に見張ることにしたのに、暑くてたまらなくなったら、
「何これ!都がどうなるかとかもう知らんし!死んだ方がましだし!」
みたいに怒る。
(実際はどんな気持ちでどんな言葉で怒ったのかは、本人に聞いてみんと分からんね。
でもわたしは、善逸( CV.下野紘さん)の声で、こんな風に脳内再生しとるよ)
それにしても、ヨナさんって、ホントに預言者?神に選ばれた人?聖人?って、疑いたくもなる人です。
ちっとも立派な感じもしなくて、素晴らしい感じもしない人です。
皆さんは、どう思ったかしら?
それでも神は語りかける:ヨナと神の対話から見えてくるもの
でもね、神様はいつも、こんなヨナに声をかけられる。
そして、ヨナも、いつも神様と対話している。
弱っているとき、困っているとき、逃げ出したときも、愛に戻って話をしてる。
どん底にいるとき、死ぬか生きるか迷うときも、命に向くことを選んでる。
思い通りにならないときも、腹が立つときも、光に自分をさらけ出してる。
ビビリで、卑怯で、短気な自分も、そのまんまで、神の前に居続けている。
不完全な私たちへのメッセージ:神の揺るぎない愛の深さ
旧約聖書を読んでいると、旧約の神様って、熱情の神、正義の神で、なかなか厳しい感じがします*2。
でも、ヨナ書では、怒りん坊できかん坊のヨナに、神は優しくこう語りかけます。
「ヨナよ。あなたは、自然に生えたトウゴマが、一夜にして枯れてしまったことさえ惜しむね。
ならばどうして、この大いなる都ニネベを、わたしは惜しまずにいられよう。
ヨナ。わたしはね、惜しくてならない。
それほど、わたしは、この都の人々をも愛しているのだよ」
ヨナは、言い返すことが出来なかったと思います。
なぜなら、ヨナは、神が「恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを」よくよく知っていたからです。
きっと、ヨナは、人々に対する神の大きな愛、自分に絶えず注がれている神の深い愛を感じて、心打たれたこととわたしは思います。
ありのままで愛されているわたしたち
実際、ヨナが心を打たれたのかどうか。
それは、聖書に書かれていません。
ヨナの物語は、ヨナに語りかける神の言葉で終わっているからです。
なので、「ヨナは、人々に対する神の深い愛を感じて、心打たれたと思います。」というのは、わたしの想像です。
想像というか。
わたし自身が、読み終わったとき、「なんという神の愛だろう」と心打たれたという方が正確です。
ヨナさんは、わたしたちが抱く、「愛の人」「神の人」「聖人」「預言者」というイメージからは、とてもかけ離れた人物のように思えます。
短所が目立つ、卑怯で弱虫ですぐ愚痴を言うし怒るし、プライドが高くて格好悪いことが嫌いみたいだし、人々が救われることよりも自分の正しさを優先するようにさえ見える人です。
それでも、いつも神はヨナに語りかけ、ヨナに真意を伝えようと心を砕いていました。
忙しい現代社会においては、心を静めて自分の感覚や感情に耳を澄ませることや、何かしら直感に働きかけて来るものを感じるということは、そもそもそのような時間もとれず、難しいことかもしれません。
いや、時間を取るとか以前に、直感は「気のせい」として、スルーしてしまっていることも多いかもしれません。
また、感覚や感情なんて、仕事をする上でも人付き合いをする上でもやっかいなだけだから、気づけば封印してしまっている、ということも多いかもしれません。
だから、もし仮に「神の声」というものがあるとしても、あるいは、何かしら自分の使命を示唆する事実が起こったとしても――
何も信じられないし、何も受け取れないし、そもそも、そんな面倒なことに巻き込まれたくないという思にしかなれなくて、大切なことも、聞かなかったこと見なかったこと、気づかなかったことにしてしまうかもしません。
そして、ヨナのように、逃げて、怒って、思い通りにならない現実に絶望して、嵐にもまれる船の上でいつ身投げしようかと逡巡して――
どんなに頑張ってもままならない人生であるなら「死んだほうがまし」、そう思ってうなだれたまま、引きこもってしまうかもしれません。
もし今、わたしが、あなたが、そんな「自分」であったとしても。
わたしたちは、今のそのままで愛されています。
そして、「愛」に生きるように、常に招かれています。
「ヨナのように、自分は特別じゃないから、招かれているわけない」と思ってしまうでしょうか。
なんでこんなに暑い思いをしなくちゃいけないんだ!と愚痴をこぼしている、そんな日常の中にも神様はおられます。
そして、わたしたちは、その愛とつながることができます。
それほどに、わたしたちの内には愛があり、わたしたちの周りにも愛はあります。
わたしたちの内にある、頑張り、優しさ、誰かのためにという思い、でも上手く行かなくて悲しくなる気持ち、思い遣り、すべての頼もしく温かいもの。
わたしたちの周りにある、水、ガス、電気、空気、それらを作ってくれる人たち、生き物たち、車、電車、バス、青空、海、太陽、星々、花火、蝉の声、すべての美しく不思議なもの。
神はわたしの内に、わたしは神の内に。
聖書にも書いてあって、多くの聖人聖女方、信仰の先輩方も言われていることです。
だからこそ、わたしは確信しています。
あなたは、神様からどんな愛の言葉を受け取りたいですか?
(宗教は苦手だなと感じながらもここまで読んでくださった方は、いらっしゃるでしょうか。
読んでくださって、ありがとうございます。
もし良かったら、天から「どんな愛の言葉を受け取りたいか?」考えてみてくださいね)
もし今、一つも思いつかなかったり、「わたしに、愛の言葉をかけてくれる人なんていない」「こんなわたしが、愛されるとは思えない」と悲しく感じられるようでしたら――
どうか、わたしのところにお話しに来てくださいね。
一緒に、あなたの内にある愛、あなたの周りにある愛を、見つけていきましょう。
愛夫家りお
ご案内
8月のカウンセリング日程です。ご予約受付中です。
【残1枠】7月、アンケートモニターを募集しております。この機会にぜひご利用ください。