心理カウンセラー愛夫家りお

 パートナーシップと家族とわたし

「あなたの気持ちはわからないけど、私はあなたが大好きだから、喜ばせたい!」と思って相手の距離感無視してガンガン行ってしまって玉砕する問題。

なんて素敵なツイートなんでしょう。もうね、ホントにそうだと思います。

そりゃぁね、嫌われてしまったら悲しいですよ。世界が終わったかの勢いで凹みますよ。食べ物はのどを通らないし、水分だってとりたくないし、体に力は入らないし、外出たくないし、化粧もしたくないし、身支度なんてどうでもよくて、ずっと寝てたいですよ。号泣できたらいいんですけど、最初はショックすぎて泣くに泣けないですしねぇ。

もうね、ホント寂しく切なく悲しい限りです。

それでも、ぼんやり「やることはやったよなぁ…」と思えると、後悔が残りにくいからか、涙にくれながらも「えらかったな、自分」って執着を手放していくことも、いくぶんかたやすいんですねぇ。いくぶんかね。つらいのはつらいのよ。でも大丈夫。しばらくゆっくり休んだら、ちゃんと動けるようにもなってくるし。そうしたら、「さて、わたしは『今』どうしたいかな。『今』何をしたいかな。」と、また、地に足をつけて暮らしてもいけるんですね。大丈夫よ。

とはいえ!

これが何度も繰り返されると本当につらいんですよね。ホントつらい。

片思い両想いの恋人に限らず、老若男女問わず尊敬する人とか憧れる人とか、そいうい大好きな人たちもいますね。ただ純粋に仲良くなりたいだけ。気の置けない会話がしたいだけ。楽しく笑顔で一緒に過ごしたいだけ。なのに、距離感がうまくとれず、バウンダリー(心の境界線)をあっさり超えて、相手のパーソナルスペースを侵してしまう。結果、「こいつヤだ」って顔されちゃう。ドン引きされちゃう。見事玉砕。

もうホンットに悲しい限りです。

それでわたしはどうしたか。まずは、「もっと話したい関わりたいと思うと相手の距離感無視してガンガン行ってしまう」と悲しみ嘆く彼女に宛てられた師匠の提案*1を、我がこととして実行あるのみ!でした。さすが武闘派女子。心意気が違うわよね。

「もっと本気で生きてみたらどう?」

頭で考えるよりも、自分の気持ちに素直に従って見なさいな

「うまく行くかどうか」よりも「やりてーかどうか」
「ちゃんとできるかどうか」よりも「やりてーかどうか」
「周りからどう思われるか」よりも「やりてーかどうか」

「しょうがないよね。それがYちゃんなんだもんねえ」
「それが私」「それも私」

ふだんから本気で生きてますか?
やりたいこと、どれくらいやってますか?
自由をどれくらい自分に許してますか?
笑ってますか?(たぶん、Yさんは笑顔がとても似合う女子のはず)
好きなことにどれくらい忠実ですか?

「解放」
「自分を野に放つ」
“安全な”取り組みとして、「仕事を本気でやってみる」

「もっと自由に生きていいんじゃない?」

やりたいことはやる。
好きなことは全部やる。
本気で生きる。

失敗するたびに、泣きながら何度も何度も読んで、何度も何度も「自分を許せてる?」「我慢してない?」なんて、わたし自身に声かけて。武闘派とはいえね、当初はホントつらかったです。

でも、許せる自分がどんどん増えてくると、つまり、日常におけるアホな自分の面積が増えて、そのアホさ加減に自分も慣れてくると、だんだんと「緩んでる自分がフツー」に感じられて来るんですね。だから最近のわたしは、なんだか肩がラクで、眠くてたまりません。ビクビク怯えて言いたいことも言えず、「気づいて」「察して」という欲求オーラ出しまくりの、重た~い自分を荷下ろし出来たからかもです。嬉しいことです。もちろん、夏の疲れが出ている季節だねぇとか、寒暖差もあるから秋眠暁を覚えずという感じかしらねぇというのもあるかもですけど。

どのくらいアホなのかというと、こんな感じです。音楽アカウントの方でも縦横無尽につぶやき倒しておりますぞ。
twitter.com

twilog.org

ブログ書いてないでどこ行ってるかと思ったら、ツイッターで、ああでもないこうでもないとつぶやいていたんですねぇ。ライブにも出かけたし。「やりたいことはやる。好きなことは全部やる。本気で生きる。」を、コツコツ実践していたんですねぇ。

ツイッターやSNSのありがたいところは、アホなわたしを面白がってくれるユーザーさんがいること。つぶやいたはいいものの、恥ずかしくて死にそうな気持になってしまった時、「いいね」があると、ホっと慰められます。(「いいね」には、執着しちゃう問題もあったりするのですが、そのお話はまた今度。)

「いいね」が0だと凹む問題も出て来るんですが、「わたしはわたしだしね」という自分軸で発信できるようになると、他の人が反応しようがしまいが気にならなくなってきます。大丈夫です。同時に、自己肯定感があがってくると、「わたし、よくやった」と自分を褒められこそすれ、もう自分イヤだと凹むことも少なくなって来ます。(そんな自分になれるよう、自分を鍛えるためにSNSを使う!というのも手ですが、それはこの修行が、つらいけども楽しい!好き!なら、やってもいいかなぁとわたしは思います。そうじゃないなら、無茶しないでね。)

それで次に、わたしはどうしたか。王道中の王道、本丸攻略です。人付き合いの基盤になっているお母さんと向き合う。ラスボスおかん問題に、いよいよ着手です。

めんどくさいですよねぇ。しんどいですよねぇ。でも、毎度繰り返してしまうとなると、やっぱりこれかー、どうしてもここを攻略しないといけないかー、なんですよねぇ。そうなんです。わたしは、大好きな人に向かって、満面の笑みで「大好き!」と言っても大丈夫な人、「安全な人」自己攻撃の無い人になりたいんです。わたし自身が自分に心地良い、自分を許せてる人になりたいんです。

というわけで、おもむろに開かれたのは、根本裕幸『敏感なあなたが人付き合いで疲れない方法』本*2。根本師匠、華々しく登場です!まえがきの最初の1文は「人との距離感がわからない」。なんということでしょう。心に刺さります。傷がえぐられます。すでに涙なしには読み進むことが出来ません。それでもわたしは持ち前の胆力で読み進みます。「なぜ相手との距離感がつかめないか?」の第1章から始まって、「あなたの人間関係をつくる母親の壁」第4章に突入です。

第4章の3節に、「母親から心理的に自由になる方法」が書いてあります。早速それに取り組むわけですが、これがまたしんどい。だって、「これまでずっと心の奥底に沈めて来た自分の感情」を「感じる作業」ですものね。

小さい頃の自分に返って、一つ一つ、母親のことを思い出す。あれがつらかったな。あれが嬉しかったな。小さいわたしの気持ちに寄り添う。当時の母の気持ちを想像してみる。さみしい。つらい。大変だったよね。いろんな感情が湧き上がる。お恨み帳もすぐ横にセットしておいて、怒り悲しみがあふれてきたら、罵詈雑言をガシガシ書きなぐる。30分ひたすら書き続けて一息ついたら、ノートをバリバリ破って、こなごなに千切って、くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱の奥にガッサーと沈める。

何度繰り返したかなぁ。

そうやって、少しずつ少しずつ、温かい気持ちが羽を伸ばしてもいいように、少しずつ少しずつ、わたしは、自分の心に余白をつくっていきました。

また道半ば、というか、わたしを産み育ててくれた母は、わたしという存在の基盤なので、その影響を拭い去って0にすることは出来ません。なので、おそらく、「母を手放す/許すワーク」は、濃淡を変えながら続いていくのだろうなぁと思っています。

え?そうなの!?影響は避けられないの?じゃぁもうわたしダメじゃん!絶望!なんて思わなくて大丈夫。小さなわたしの涙をぬぐってあげることの出来るわたし、あの頃の母の気持ちに理解を示すことの出来るわたしは、母と対等な「大人の女性」になっていくわけなのですが、そうすると、小さなわたしの見上げていた母もまた、ただの「おばちゃん」になって来るんですね。お互いに、対等になって来るわけです。こうして、お互いに「いいとこもあるじゃん」と思えるようになっていく。

これって、相互依存の人間関係になっていくプロセスですよね。

20年以上、会っていない母。今はまだ、会って話したいと思えない。どちらかというと、もう会うこともないかもしれないと思ってたりもする。それくらい、わたしの心の傷は深いらしい。それでも思う。どうなるにせよ、大丈夫だろう。自分を信頼して、流れに身をゆだねて行こう。そう思えている日々です。

母を許せた分だけ、母に似てる自分の容姿も許せる。母を許せた分だけ、母のような愛し方になってしまう自分を許せる。そして、復讐のために不幸せになることを選ぶ自分の癖も、手放せていけるだろう。

そうしたら、わたしは、尊敬する憧れる大好きな人の前で、とびっきりの素直な笑顔になれて、肩の力も抜けてすっかり自分らしく振舞えて、はにかみながら「こんにちは。こないだは失礼してごめんなさい」なんても言えるんだろうなぁ。

いいよね、そんなわたし。


追記:心の奥深くに沈んでいる問題(普段は意識されてない部分、無意識や潜在意識)に突然触れると、精神が不安定になったり、ダメージを受けることがあります。それは危険でもあります。なので、一人で取り組むのではなく、カウンセラーなどプロの手を借りることもまた大切です。是非、頼ってくださいね*3