心理カウンセラー愛夫家りお

 パートナーシップと家族とわたし

何か言われでもしたら怖いから、このことは黙っておこう ~喜びの感情を抑圧するのは、嫉妬されることを「怖れ」ているから~

皆様、こんにちは。


夫婦歴24年(その間、引きこもること15年)、心理カウンセラーの愛夫家 りお です。



大学院卒の元国語教師でクリスチャンのわたしが、ちょっぴり自分に厳しいあなたを休ませ、あなたらしく自由に生きる女性にします。



「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、だれでもわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(聖書*1


性格診断をやってみた



先日、先輩たちが、診断サイトで「性格新聞」なるものを発行しているのを見かけました。



これがなかなか面白い!



というわけで、わたしもさっそくやってみました。



質問にあてはまるものを、どんどん答えて行きます。



そして発行。



わくわくです。



ところが。



出来上がりを見た途端、わたしは固まってしまいました。



だって、見出しが、



”飛び抜けて優れたワードセンスは「人間国宝に値する」と賛辞”



だったんです。


人間国宝に値するですってー!

 



良かったじゃん。



そうなんですよ。



確かに、もしこれが友達のことだったら、



「さすが!すごい!」



と、わたしは喜んだと思います。



でも自分のこととなると、固まってしまった。


なんで?ですよね。



というわけで、今日は、一体わたしの心で何が起こったのか?というお話です。

自分の喜びは隠せ!


さて。

 

性格新聞の見出しに驚いて固まってしまったわたし。



すべては一瞬の出来事です。

 

 

それを、超スロー再生で一つ一つ細かく説明してみますね。

 

 

まず最初に、出来上がった性格新聞を見てわたしが感じたのは、

 

 

「うあー!すごい!やったー!ラッキー!」

 

 

という気持ちでした。



わたしは、言葉が好きで、文章が好きで、物語が好きです。



だから、言葉のセンスを褒められるのは、この上なく嬉しいんですね。



そして、この上なく誇らしい。



幸せな気持ちで胸いっぱい、誰かと分かち合いたほどです。



ところが間髪を入れず、わたしは「ヤバイ!」とも感じました。



それを言葉に直すとこんなカンジです。



「そんな風に手放しで素直に正直に喜んだら、絶対陰口言われる!



怖い!」



この「怖れ」たるや。



後ろから刺されるかもしれない!と言わんばかりです。


まさに命の危機。



なので、すぐさま心にも体にもブレーキがかかります。



感情に蓋をしろ!



表情筋を動かすな!



この時の自分の顔は、どんなだったかなぁ。



わたしは、小さい頃からしばしば、黙っていると「怒ってるみたい」と言われていました。



心には、喜びや、驚き、感動が満ち溢れていても、です。



だからこの時は「怖い」と感じている分、余計、怒ってるみたいな顔をしていたかもしれません。



嬉しいはずなのに、何も感じてないふり。



嬉しいはずなのに、まるで怒ってるみたいなポーカーフェイス。



切ないです。

 

抑圧するメリット・デメリット

 

思春期以降のわたしは、この抑圧のおかげで、陰口を免れることが出来ていたように思います。


仮に、「すごいじゃん!」と言われたとしても、「いえいえ全然そんなことないです」という謙遜(と見せかけた自己否定)の言葉とセットで、さらに陰口を回避です。



「怖れ」による自己防御には、こんな「メリット」があったんですね。


(にしてもすごいよね。


こうやって、「怖れ」ることで、自分以外の人を「陰口を言ってくるかもしれない」悪人に仕立て上げてしまうという)



何はともあれ、一安心。



ところが、ホっとしたところで、ふと我に返ります。



こんなんで、今、わたしは幸せなのかな、と。



昔ながらの癖で見事自分の抑え込みに成功したわたし。

 

 

一方、SNSでは、先輩たちがお互いの新聞をわいわい読み合って楽しそうです。



なのにわたしは、「怖れ」のせいで誰とも何の話も出来ない。



なんだか寂しくて、ちょっと悲しい気分です。



こうなってくると、「怖れ」による自己防御は、「デメリット」のように思えて来ます。



何とかしたいなぁ。

 

どこで覚えた?ルーツを探る



誰にも何も言われてないのに、周囲の人を仮想悪人と見なして自動防御するシステム。



わたしは、一体どこでそれを身に着けたのでしょう?



それは、「メリット」にヒントがありそうです。



陰口を避けたい。


つまり、わたしは、いつかどこかの陰口で、傷ついたことがあるのかもしれません。



そのため、二度と傷つかないためにこのシステムを作り出したのかもしれません。



そこで、自分に向き合って、これまでを振り返ってみました。


すると、2つの出来事が、印象深く思い出されました。

 

思春期の出来事



1つは、中学生・高校時代の女子同士の思い出です。



わたしは真面目な生徒でした。



でも時には、

 

 

「授業がたいぎー」

 

 

広島弁で、ダルい、しんどい、めんどくさいという意味。)

 

 

という理由だけで学校を抜け出したりもしていました。

 

 

割と不真面目です。



でも、そうであっても、怖い生徒指導の先生も、クラスの子たちも、


「りおさんは、何か用事があって出かけるのだろう」


と思っていたそうです。

 

まさか気分で授業を抜け出すはずがない、というわけです。



そのくらい、わたしは見た目が真面目そう、だったようです。



そのせいか、時々、不良と密かに怖れられていた女の子たちの冷やかしの的にされることもありました。


(不良とはいえ、小さい頃はよく一緒に遊んだ幼なじみだったり)



まるで、真面目そうなやつは弱いと相場は決まってる、格好の餌食、と言わんばかりです。



ところが、わたしの見た目の真面目さは、まやかしに過ぎません。



なので、あからさまな陰口に気づいても、「は?」という冷ややかな視線を投げて終わりです。



それで、彼女たちは二度とわたしに近づかなかったりします。



(ああでも、めんどくさい。)



ところが。



そうもいかなかった、ということもありました。



思いがけず、クラスの男子に絡まれてしまった時です。



自分の席に座ったまま読書なんかしていても、それが男子に囲まれた状態だったなら、すぐ睨まれました。



ましてや、ちょっとでも楽しそうにわーきゃー騒ごうものなら、睨まれるだけでは済みません。



不良女子たちは、わたしをちらちら見ながら、こそこそ何か耳打ちし合う始末です。



あーあ。



最悪だ。



怖ろしい。


また、根も葉もない噂に巻き込まれるのか。



めんどくさい。



わーわーきゃーきゃー楽しそうに笑ったりして、目立ってしまうとやっかいだ。



そこでわたしは、


「わたしのクラスに男子は存在しない」


と心に刻み、

 

「同性に好かれることを第一とする」



と心に強く誓いました。



そんな学校生活でした。

 

母との出来事

 


2つ目は、母との思い出です。



わたしが大学4年生、23歳頃のことでしょうか。



その時わたしは、一人夕食を摂っていました。



母は、趣味のパッチワークをしながら、わたしに今日の出来事を話してくれていました。



何でも、ばったり出会った近所の娘さんとそのお母さんが、わたしのことを大変褒めていたというのです。



そういえば、中学生の頃、わたしは、自分の後輩に当たる娘さんを、よく面倒見たなぁ。



わたしは、茶わんと箸を持ったまま、そんなことを思い出していました。



そして、なんだか嬉しく感じていました。



母は、わたしが褒められて、さぞ鼻が高かっただろうなぁ。



ところが、母はこう言ったのです。



「あんたって、外面はいいのね。」



え?


ええ?



わたしは大混乱。


頭を高速回転させて自分を振り返ります。



わたし、どこで間違った?



何か悪いことした?



お世話になったと話してくれた娘さんと、そのお母さん、わたしのこと褒めてくれたんだよね?



あれ?



わたし、怒られてる?



わたしは、母を不愉快な気持ちにさせてしまった?



なんでそうなるんだろう?


わたしは訳がわからないまま、悲しい気持ちでいっぱいになりました。



つらいな。



こんな気持ちイヤだな。



ああ。


噂が立つようなことは、やっかいだ。



目立ってしまうとろくなことがない。



喜ぼうものなら、酷い目にあう。


だから、わたしは、目立たないようにしよう。



だから、わたしは、手放しで素直に正直に喜んだりしないよう、気をつけよう。

 


こうして振り返ってみると、学校での女子付き合いも大変だったけど、母からの非難もしんどかったんだなぁ。


そう気づかされます。


(さすが、ラスボスおかんじゃ。)

さて、どうしよう?



こうしてわたしは、誰にも何も言われてないのに、自動的に発動する防御システムを身に着けて行ったようです。


このシステム、すなわち心の癖は、傷つくかもしれないことから、長い間わたしを守ってくれました。


けれども同時に、わたしを孤独にもしています。


どちらが「よりわたしらしいか」というと、嬉しい時には喜び、その喜びをもって人と繋がろうとする自分の方が、よりわたしらしく感じられます。


そんなわたしは、とっても自由で楽しそう!


だとしたら、この自動発動を何とか最小限に留めたい、もしくは、自分でコントロールできるようになりたいものです。


というわけで、今日はここまで。


次回は、じゃぁどうすればいいの?そしてわたしはどうなった?というお話です。


ちょっと!


タイトルにある「嫉妬」って言葉が、全然出てこなかったじゃん?


一体どこが嫉妬なん?


そうなんですよ。


そのことについても、次回きちんとお話しますね。


あなたをお待ちしています



今日、他人の目を怖れて、孤独を感じている人はいますか?



今日、自分は「素の自分」を隠していて、窮屈だなと感じている人はいますか?



もしそう感じている人がいるなら、どうか、わたしたちに声をかけてください*2

 

わたしに声をかけてください*3

 

あなたのお話、わたしたちは聴きます。


わたしは聴きます。

 

ジャッジすることも、否定することもなく。

 

ただ「あなたはそう感じるんですね」と、そっくりそのまま受けとめます。



一緒に幸せになって行きましょうね。



「荒れ野と乾いた地は喜び

 砂漠は歓喜の声を上げ

 野ばらのように花開く」(聖書*4


あなたの心に、豊かに豊かに愛が注がれますように。


シャローム*5


愛夫家 りお