先日のわたしのツイート。
シオカラトンボを見かけると、なんとなく気の毒に感じて、心の声を妄想してしまう。「オニヤンマとかかっこいいし、ナツアカネとかきれいじゃん。なのにさ。なんなん、シオカラって。佃煮みたいじゃん。」名前の由来は体の灰青色が塩昆布みたいだから、だそう。近所ではいろんなトンボを見かけます。
— Rio〄 (@songrio1) 2022年8月23日
シオカラトンボはなんとも思ってませんって。そもそも、彼(彼女)は、自分がトンボかどうかさえわかってるかどうか。というか、わかってないと思います。
ということは。そう。このトンボの正体はわたしです。「心の声を妄想してしまう」って言っちゃってますもんね。そう。「わたしが」妄想してしまうんです。これは「わたし」「自分」のこと。そう。トンボに、自分が投影されちゃってるんですね。
ザ・投影。
そんなこととはつゆ知らず、気づかず、わたしは「ああ、かわいそうに。シオカラだなんて。佃煮かよ。ぷぷぷ」と、シオカラトンボを下に見ていました。
つまり、シオカラトンボにマウンティングしたってわけです。
「わたしは、オニヤンマとかナツアカネには負けちゃう。わたしは、かっこよくもないし、きれいでもない。でも、シオカラになら勝てる!わたしはごはんの友じゃないしネッ!!」そんな競争心ムンムンの中から、勝利の雄叫びを上げたってことです。
あー。それって自分に自信がないからそんなことするんですよねー。
確かに、言っちゃってますよね、「オニヤンマとかナツアカネには負けちゃう」って。え?あなた、ホントにかっこよくないの?きれいじゃないの?
自己価値低くない?
しかも、勝ち負け競ってたら、友だちいなくなるわよ?確かに、「ああ、あの人も頑張ってるから、わたしも頑張ろう!」という、ポジティブな競争なら、ワクワク生き生き楽しくって素晴らしいわ。でもね、「くっそ。わたしよりもかっこよくてきれいだなんて、ゆるすまじ!」なんて、これもう、シンデレラの継母モードよ。毒林檎用意して食べさせようとしちゃってるわ。そんなことしたら、友だち全滅よ。かくしてあなたは思惑通り1番になるかもしれないけど、その先には、あなたの世界にはあなたしかいないという、凄まじい孤独が待ってるわよ。
それでいいの?
やだ。どうすればいい?
そういうときは、白旗を振るんです。負けを認めましょう。そうして比較や競争を手放すのです。「シオカラの勝ちです、わたしの負けです」と言ってみましょう。そして、シオカラのいいところを認めてあげましょう。できれば、シオカラのすばらしさを、本人に伝えてあげるといいですね。
は?
というわけで、調べてみました。シオカラのシオカラ成分、すごかったです。
シオカラ成分、すごかった。
— Rio〄 (@songrio1) 2022年8月23日
「研究チームの二橋亮主任研究員は「今回見つかった成分は安全性などを確かめる必要があるが、従来とは違う生物由来の日焼け止めにつながる可能性がある」と話した。」
シオカラトンボから日焼け止め? 分泌物が紫外線反射:朝日新聞デジタル https://t.co/SxoDVxSvS2
やだ!シオカラ、やるじゃん!すごい!あんた、自分にもっと自信もっていいよ!すごいじゃん!ひゅーひゅー!
わたしの負けです!シオカラの勝ちです!シオカラすごいです!感動ー!!
かくしてわたしは比較と競争を手放し、互いの価値を認め合い、シオカラとの相互依存の道を、平和で穏やかな気持ちで歩いて行くのでした。(シオカラは、どこでわたしの価値を認めたっけ?)
<完>
と、ここで終わればいいんだけど、まだ問題が残ってるんですよね。もう一つの比較と競争。「佃煮」問題です。
ある人がこんなことを言っていました。(正確な引用はソースを辿れず。)
「〇〇じゃあるまいし」という表現。自分はこれを使いたくない。なぜなら、この言い方は、「〇〇」に入ったものをバカにすることだから。
わたしは「なるほど」と唸りました。昭和のセリフにはよくありましたね。男の子が叱られるときによく聞きました。「女の腐ったのじゃあるまいし」。
わたしは、「女」の自覚も薄かったけど、それ以上に「わたしは腐ってないし」という思いがあって、この言い方をスルーしていました。でも確かに、気持ちのいいものじゃありません。
で、シオカラも心につぶやいてしまってます。「佃煮みたいじゃん」。すなわち、「佃煮じゃあるまいし」。
そこへ、自己肯定感の高いイナゴがやって来て、こう言いました。
イナゴ「え、佃煮?佃煮いいよ~」
— Rio〄 (@songrio1) 2022年8月23日
シオカラ「あ、、、ごめん、、、」
おばあちゃんちに帰省したときスーパーで、だったか。一度だけ、パック詰めのイナゴの佃煮を見たことがある。大量に重ねられたその光景は、小さいわたしには衝撃だった。「トノサマバッタが!!!」イナゴ。まだ見たことがない。
イナゴ、さすがですよねー。自己肯定感、とても高いです。もし、イナゴに自信がなかったら、「なにをー!バカにしたなーッ!」と烈火のごとく怒って、モーセの十の災いのごとく、大群となって緑という緑を食い尽くしにやって来たかもしれません。シオカラも生き延びることは出来なかったでしょう。
しかし、イナゴはシオカラを受け止め、受け入れ、許しました。イナゴは、負けを認めたのです。しかも、負けてる自分がダメだと卑下したりせずに。そのうえ、イナゴは、「佃煮いいよ~」、すなわち「わたしは、佃煮に価値を見ています」と、自分軸で、シオカラに語りかけています。
イナゴ、すばらしいですね!わたしも見習いたいです。
すると、シオカラは謝りました。すばらしいですね!誤りを認めたら、すぐに謝罪する。シオカラもまた、イナゴの佃煮の価値を認めたのです。つまり、シオカラもまた、負けを認めたと言えるでしょう。こうして、比較・競争は手放されました。すばらしいことです!わたしも見習いたいです。
かくしてシオカラは、自分に自信が持てるようになり、イナゴと相互依存の道を進んで行きました。なのかどうか。
残念ながら、わたしは知りません。
でも、厳しい残暑の中、灰青色のボディをきらめかせ、颯爽と飛びまわっている姿を見ると、きっと彼(彼女)は、自分軸で生き、対等性を獲得し、高い自己肯定感を持って生きてると、わたしには思えるのです。
<完>
然り。これもまた投影。
ならば、わたしも、そして、「ああ、シオカラ、ホントによかった」と感涙にむせぶあなたも、確固たる自分軸と、高い自己肯定感を、もう既に持っていると言えるでしょう。大丈夫!
ああ、What A Wonderful World。なんと素晴らしい、この世界!