素顔のわたしでラク~に生きる!クリスチャン心理カウンセラーの愛夫家りおです。
大学院卒・元国語教師のわたしが、「あなたの物語」を共にたどり、愛と命と光につながるお手伝いをします。
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(新約聖書「マタイによる福音書」6:26)
体調や事情があって、思うように働けない時期。
家にいる時間が長くなると、ふと、こんな思いが出てくることがあります。
「今日も何もしていない」
「誰の役にも立っていない」
「普通の人みたいに、働いて稼がなきゃいけないんじゃないか」
頭では「今は休むことも大切」と分かっていても、胸の内が、どこか落ち着かなくなる。
わたしにも、そんな時期がありました。
今日は、「何も与えていない」と感じていたわたしが、庭の花を通して、すでに誰かに何かを届けていたことに気づかされた、というお話です。
もし今、「わたしも同じかもしれない」と感じる方がいたら、一緒に読んでいただけたらうれしいです。
成果も結果も出していないことへの焦り
その頃のわたしは、ただ淡々と毎日を暮らしていました。
朝起きて、食べて、家のことを少しして、帰宅した夫を迎えて、寝る。
外で働いているわけでもない。
何か大きな仕事をしているわけでもない。
ご近所の方に「奥さんは何をしているの?」と聞かれるとき、夫は「家にいます」と答えてそれ以上は何も言わないのだそう。
何とも説明しづらいもんな。
微妙な空気になるんだろうな。
夫は肩身狭くないかな。
そんなことを思って、わたしは苦笑いするばかりでした。
2月、3月は少し体調を崩していました。
振り返れば、引きこもりをやめて外に出るようになってから、ずっと突っ走って来たように思います。
だから、「休もう」「ただ『ある』ことを許そう」と思って過ごしていました。
けれど、それでも心のどこかに、こういう感覚が残っていました。
「それにしても、わたしは与えてもらうばかりで、何も与えていないな…」
そんなわたしはダメではないのか?
与えることも、受け取ることも止まっていた
「与えていない」という感覚は、わたしの中では、何か流れが止まっている感じでした。
感謝や喜び、そして動きだそうとする体の内側からの力は、
ありがとうと伝える。
ありがとうと受け取る。
そういう小さなやりとりの中で、エネルギーを巡らせているのだと思います。
中でも「感謝」は、小さいけれど、とても大切な「愛」の循環なのだと思います。
けれど、その頃のわたしは、それもこれも全部、止まっているように感じていました。
最近、笑ってるっけ?
それにしてもだるいなぁ。
街に出るとか、特に行きたいとこないし。
人に会っても話すことがないような気がするし。
大丈夫か?わたし!
そんなふうにして過ごしていました。
罪悪感の隠れた「ありがとう」
ただ、一緒に暮らしている夫に対しては、ありがとうと言っていたと思います。
「いつもありがとう」
「お仕事お疲れさま」
「ご飯作ってくれてありがとう」
(我が家は、わたしは掃除洗濯係で、夫が食事係です)
けれど、そのありがとうは、しみじみとした感謝だけではありませんでした。
「これを言わないと、わたしはいたたまれない」
そんな申し訳なさを埋めるためにも、ありがとうと言っている。
そんな感じが、少し混ざっていたように思います。
だから、感謝しているはずなのに、心の奥では少しイライラしている。
(「どうせわたしはゆるしてもらえない」という怒り、悲しみのような感じね)
そして、そんな自分に気づくと、「嫌な人間だな」とますます何かが黒く凝り固まるような感じがしたものでした。
ありがたいなぁしあわせだなぁという穏やかな喜びの感覚とは、何と程遠いことか。
庭の花が、いつの間にか咲いていた
家の塀に沿って横一列に並んだプランターには、ビオラ、ノースポール、ペチュニアなどが咲いています。
気づけば、どのプランターも色とりどりの花が咲きこぼれるほどになりました。

ところが、無心になって手入れをしながらも、わたしはそれを「見事だ」とは、あまり思っていませんでした。
(やろうとしてこうなったわけじゃなくて、たまたまこうなったーって思ってたのよね)
人って、自分がさほど努力せずにできてしまうことほど、「たいしたことない」と思ってしまうものなのかもしれません。
自分には当たり前すぎることほど、その価値に気づきにくいのですね。
わたしは、与えていたのかもしれない
そんなある日、ご近所の方が声をかけてくださいました。
「こんにちは。いつも綺麗にしていらっしゃいますね」
「散歩するときに、いつも見て、いいな、綺麗だなって思っているんですよ」
わたしは、少し驚きました。
わたしは、誰かのために花を育てようと思っていたわけではありません。
誰かを喜ばせようと、頑張ったわけでもありません。
ただ、花がそこにあってくれるから、毎朝、水をやることができた。
花がらを摘むことができた。
何もしていないように感じる日にも、「今日は花の手入れをしたし」と自分を励ますことができた。
花に慰めてもらっていたのは、むしろわたしの方でした。
それなのに、いつの間にか、その花が、誰かの散歩道の喜びになっていた。
誰かの朝や夕方に、「綺麗だな」と思う時間を届けていた。
そのことを知ったとき、思いました。
ああ、わたしは何も与えていなかったわけではなかったんだ。
心配しないで、ただ「ある」だけの自分を認めてもいいんだな。
ただ家にいるだけのように見える日にも
家にいることへの罪悪感は、今でもゼロではありません。
「普通の人」みたいに働いていない。
思ったほど稼げていない。
分かりやすい成果も出していない。
そんなふうに思う日は、やっぱりあります。
けれど、庭の花を見てくださっていた方の言葉を聞いてから、少しだけ見方が変わりました。
何もしていないように見える日にも、わたしは花から小さな小さな喜びを受け取っていました。
それは、自分が「喜んでいる」と感じることができないほど、小さなものでした。
けれど、わたしが受け取っていた小さな喜びは、知らないうちに、散歩する誰かにも届いていました。
受け取っていたことにも、与えていたことにも、気づかなかったわたし。
ただ「家にいる」だけ、「ある」だけの自分には、存在価値もないとすら思っていたわたし。
そんなわたしでさえ、「愛」の循環の外にいたわけではなかった。
そんなわたしにも、存在価値があった。
それは、わたしにとって、とても大きな気づきでした。
生きて、ただ「ある」だけ。
それだけでいい。
そういう言葉は、これまでにも何度も聞いてきたように思います。
人には価値がある。
どんな人にも、それぞれの尊さがある。
頭では、そう分かっているつもりでした。
けれど、実際の暮らしの中で、自分の無力さや非力さをありありと感じているとき。
ただ「ある」だけの自分を肯定してみることは、本当に難しいものです。
それでも、成果も結果も見えないところで、自分の存在をもう一度信じてみる。
自分には価値があるという見方を、もう一度してみる。
それは、「わたしは、ここにいていい」と、人間の存在の根っこを何度も見つめ直すような作業といえるかもしれません。
簡単そうに見えて、実はとても大切で、時間のかかる大仕事だと思います。
それは、なんというチャレンジだろう。
今、あなたがしているのは、誰にも知られない、勇敢なチャレンジなのかもしれません。
わたしも、その大変さを知っています。
心の停滞を感じるときは
もし今、
「ありがとう」と言っているのに、心がついてこない。
動けない自分を責めてしまう。
家にいるだけの自分に、どこか罪悪感がある。
成果も結果も出していない自分には、価値がないように感じる。
そんな苦しさがあるなら、ひとりで抱え込まないでいてくださいね。
それは、あなたが冷たい人だからでも、怠けているからでもないかもしれません。
これまで、ずいぶん頑張ってきたのかもしれません。
受け取る力が、少し弱っているのかもしれません。
ありがたいなぁ、しあわせだなぁと感じる前に、罪悪感の方が先に出てきてしまう時期なのかもしれません。
カウンセリングでは、今あなたの中で何が滞っているように感じられるのかを、一緒に丁寧に見ていきます。
何を話したらいいか分からなくても大丈夫です。
まとまっていなくても大丈夫です。
「今しんどい」
「どうしたらいいか分からない」
そんな一言からでも始められます。
そこから、今の自分を受け止め、肯定し、少しずつゆるしていく時間を一緒に作っていきましょう。
よかったら、お話を聴かせてくださいね。
あなたにも、ただ「ある」だけで価値があります。

愛夫家りお
カウンセリングのご案内
家にいることへの罪悪感や、「何もできていない」という焦りを、ひとりで抱えている方にもお越しいただけます。
自分の気持ちを整理したい方、心の重荷を一人で抱え込まずに話してみたい方へ。
愛夫家りおのカウンセリングでは、お話を急いで結論づけず、今ある感覚や気持ちを一緒に丁寧にたどっていきます。
カウンセリングはZoomを使ってオンラインで行います。ご不明な点がありましたら、お申し込み前にお問い合わせフォームよりお気軽にご連絡ください。
カウンセリングの詳しい内容、料金、お申し込みの流れは、こちらのページをご覧ください。